霞ヶ浦のたこシャワー

タコカルチャー, タコ地情報
正式名称:旧=霞ヶ浦遊楽園(現=四日市市霞ヶ浦緑地)

所在地:霞ヶ浦緑地公園

※今回の貴重な情報、及び写真、資料は、名古屋在住のYu.Hサンからご提供頂きました。Yu.Hサンは四日市市富田浜にあるタコ水道の情報と写真を提供してくださった方です。その時の記事はこちら。

タコ水道@三重県四日市市

写真はYu.Hサンのお母様所有。故人のため引き継いだYu.Hサン許可の下、掲載させて頂きます。合わせてご提供頂いたYu.Hサン撮影所有の写真や資料も快諾の元使用させて頂きます。ありがとうございます!

◉1957年(昭和32年)8月

有名なたこシャワーで集合写真!

Yu.Hサンのお母様は1935年(昭和10年)生まれ。当時小山田保育所の保育士として勤務。その園児の皆さんと海水浴へ出かけた時の記念写真です。集う方々の服装や髪型も当時の様子が推察される貴重なショット。

こちらの海岸は、隣接する富田浜海水浴場。賑わっていますね。

◉1958年(昭和33年)8月

1958年(昭和33年)8月7日撮影。Yu.Hサンのお母様は最後列左側。美しい方ですね。

たこシャワーは、8本脚(腕)の一つ一つから水が出て、一度に複数人数がシャワーを浴びられる仕様。機能性とシンボリックなデザインを兼ね備えた逸品。

こちらは海側が映った写真。沖には遮るものが何もなく、かなり広い海水浴場だったことがわかります。浜辺のボートの横に”霞ヶ浦遊楽園”の文字が。

そう、この有名なたこシャワーがあった場所は霞ヶ浦遊楽園。「霞ヶ浦こどもパラダイス」として夏の期間、様々なアトラクションや企画があったのですね。このリーフレット(おそらく昭和30年代のもの)を見ているだけでワクワクします。

会場の中央付近に” ⑱たこの大型シャワー”がありますね。生きている”大らくだ(みや子さん)”、”象(あや子さん)がさりげなく居るのもその時代ならではですね。

隣接する富田浜〜霞ヶ浦一帯は風光明媚で空気も良く、富田浜海水浴場が開設された1907年(明治40年)頃から高級別荘地、保養地としても人気。1908年(明治41年)には鉄道の駅も開通し観光的にも発展したそうです。

当時の様子がわかる資料「霞ヶ浦 富田浜 名勝図絵」1933年(昭和8年)発行。

1907年(明治40年)頃〜約半世紀の間親しまれてきた人気景勝地。

しかしながら、1959年(昭和34年)発生の伊勢湾台風、四日市コンビナート誘致決定、国道建設等の環境変化により水質が悪化。1961年(昭和36年)には海水浴場は閉鎖。その後工業化に伴い、霞ヶ浦沖は埋め立てられました。戦後国のエネルギー政策の拠点とされた四日市市。工業都市としての発展は目覚ましいものがありますが、後々この地が公害問題を抱える等激変していく様には複雑な心境になります。

では現在この場所はどうなっているのでしょう。Yu.Hサンによる比較写真(航空写真)。左が1961年、右側が2023年。海の埋立も進み様相が変わっています。たこシャワーが存在したのは、1961年写真の「蛸」と書かれた赤い部分。

◉2018年6月24日

Yu.Hサン撮影。遊楽園があった霞ヶ浦一帯は、霞ヶ浦緑地公園として整備されています。

子供用の遊具もあり、親子で楽しめる場所としての流れは引き継いでいるのですね。

遊楽園当時は海が開けた風光明媚でのどかな海岸でしたが、海岸も沖もしっかり埋め立てられ工業地帯に。

右側上部に見える白い長方形のビルが四日市市みなとポートビル。工場地帯の夜景撮影スポットとして大人気の場所です。

霞ヶ浦沖を望むショット。もうあの広い広い海の姿は遠い昔。

◉2020年1月18 日

Yu.Hサン撮影。前述の四日市市みなとポートビル14F(うみてらす14)にて。

工場地帯の夜景を見学&撮影全国No1スポットとも言われている場所とのこと。

たこシャワーがあった海水浴場から随分時は流れました。霞ヶ浦緑地公園となった現在、ドームや野球場や遊具公園等を備えた三重県最大級の総合公園となり、また工業地帯見学スポットとして様々な人が集い楽しむ場所となっています。Yu.Hサンのお母様も天国で「随分変わってしまったのね」と見て下さっているでしょうか。

最後に参考資料としてYouTubeから三つの映像をご紹介します。当時の様子〜現在までの変遷に触れることができます。

◉霞ヶ浦遊楽園

◉富田浜海水浴場